『冤罪被害者』のブログ 

冤罪被害者の闘いを綴る

024控訴棄却

 2020年2月21日の控訴審判決。

 大阪高裁第2刑事部(三浦透裁判長)は、原判決は概ね相当であるとして、控訴を棄却しました。

 

 弁護側の証拠を踏まえることなく、原判決を一層不合理なものにした判決となりました。

 

 今後、上告審に向けて準備をすすめていきたいと思います。

 御支援よろしくお願いいたします。

 

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逆転無罪の事実認定

逆転無罪の事実認定

 

 

 

 

023控訴趣意④

 Aは、6月事件で動画、9月事件で画像を「証拠」として提出している。

 この点の控訴趣意は以下のとおりである。

 なお、9月事件については、Aは「別人の画像(弁1)を間違って提出したこと」を公判廷で認め、明確に証言している。

 しかし、原判決は不合理な認定を行い、A証言を救済している。

 6月事件の原判決の不合理な事実認定を併せて掲載する。

 

〔6月事件〕

原判決の認定したA及び被告人の立ち位置等を前提とすると、被告人の右手をAの陰部付近に接近させることは客観的に不可能であること

1 原判決の認定した前提事実
 原判決の認定した事実のうち、本件動画(甲24)から客観的に認定でき、かつ、弁護人も争わない事実は以下のとおりである。
 ア Aが本件日時に撮影した本件動画(甲24)では、被告人の右手の位置は、撮影開始から終了まで、概ね変わっていない(原判決5,6頁)。
 イ 被告人の右手は、電車の揺れ等によってその位置が多少変わることはあったものの、撮影されていない時間帯も含めて、その位置には大きな変化はなかった(原判決6頁16行)。
 ウ 本件動画によれば、被告人の右手の横には本件手すりの金属棒の下端がある(原判決6頁19行)。

2 原判決の認定した前提事実(上記アないしウ)のまとめ
 本件動画(甲24)の撮影開始から終了まで、被告人の右手は、本件手すりの金属棒の下端の横にあった

3 原判決の認定した被告人の行為
 原判決が、本件写真②及び③(甲27)並びに本件動画(甲24)から認定したA及び被告人の立ち位置及び被告人の右手の動きは以下のとおりである。
 ア 電車内で、Aは、ドアの方を向いて、ドアの横にある本件手すりが右肩にくるような位置に立った(原判決4頁11行)。
 イ 被告人は、右肩に黒いカバンをかけて、Aの真後ろに密着するような状態で立った(原判決4頁13行)。
 ウ 被告人は、Aの背後から、Aの体の右側と本件手すりの間に右手を通す形で、握った右手をAの体の前側に差し入れ、被告人の右手をAの股間付近に置き続けた(原判決6頁5行~13行)。

4 原判決の認定した被告人の行為は、客観的に不可能であることの説明
 (1) 原判決は、Aが常にドアに正対した状態で立っていたことを前提としている。電車内でAがドアに正対した状態で立っていた時間帯があったことは、本件動画(甲24)から客観的に認定できるし、本件動画の撮影終了後に撮影された写真(本件写真②及び③)からも客観的に認定できる。従って、客観的証拠(甲24,27)からは、電車内に居た時間帯の大半において、Aはドアに正対して立っていたと考えるのが合理的である。
 (2) しかし、Aが常にドアに正対して立っていたとすると、その状態で被告人の右手がAの陰部付近に置かれたと認定することは、原判決が認定し且つ争いのない前提事実(=本件動画の撮影開始から終了まで被告人の右手〔より厳密に表現すると、右手首より指先側の部分〕は本件手すりの金属棒の下端の横にあったこと)と矛盾する。
 なぜなら、被告人が、右手を本件手すりの横に置いた状態で、ドアに正対して立つAの陰部付近に右手を接触させることは、物理的に不可能だからである(図a〔疎明資料12の検証A・Bについての図1〕)。
被告人の右手が本件手すりの横に置かれていたという条件を付する限り、右手をAの陰部付近に接触させるどころか、「右手をAの体の前側に差し入れ」ること、換言すれば、「ドアとAの体の間に右手を差し入れ陰部に手を伸ばす」ことは物理的に不可能である。
 仮に、被告人がドアとAの体の間に右手を差し入れ陰部に手を伸ばした場合は、被告人の右手(右手首から指先側の部分)は、本件手すりの下端の横の位置から大きく離れ、甲24(本件動画)の内容と客観的に矛盾が生じることになる(図b〔疎明資料12の検証C・Dについての図1〕)。
 (3) 以上のことは、控訴趣意書28頁で指摘したところであり、原審の弁論要旨30頁でも指摘したところであるが、弁護人の指摘を待つまでもなく、一般常識で判断できる事柄(すなわち「経験則」)である。
原審裁判官は、一般常識に反する判断をして、物理的・客観的に不可能な行為を認定する過ちを犯しており、原判決の事実認定は、経験則に照らして不合理である。
 再現検証の結果、原審の認定は客観的に誤りであることが改めて明らかとなった(疎明資料12)。

5 Aが自ら体の位置及び向きを変化させたと考えられること 
 原判決は、常にAがドアに正対して立っていたことを前提としており、Aが体の位置及び向きを本件手すり側へ変化させた可能性を全く考慮していない(図c〔疎明資料12の検証C・Dについての図2〕)。
  しかしこの可能性は、甲24(本件動画)の2分40秒時点付近のAの体の向きがドアに対して正対していないこと(図ⅾ〔疎明資料12の検証C・Dについての図4〕、原審弁論要旨添付資料2-4、資料3)などと客観的に矛盾しないものであり、合理的である(図ⅾの黄色の線は車内ドアの位置であり、赤色の線は「被告人の手と接している箇所が股間部である」旨のA証言〔A11頁〕を前提としたAの体の向きである)。

 

Aの体の向きについての原判決には、事実認定に誤りがあるだけでなく、原判決の認定した事実を前提にするなら被告人の故意が否定される(原判決の認定は、論理則に照らしても不合理である)こと

1 原判決の説示は次の通りである
 ア 本件動画には被告人の右手がAの股間のまさに正面ではなく少し右側にずれた位置にあるように見える場面もあるが、そうであっても股間(陰部)付近であることは明らかである以上、本件犯罪が成立することに疑いはないし、A自身ドアに正対していた自分の股間のまさに正面まで手を回してきたとの内容まで述べるものではないから、少なくともA証言が本件動画と矛盾する不合理なものであるとはいえない(原判決8頁2行~7行)。
 イ 被告人の右手がAの股間の正面に位置する場面があったとしても、かかる状況が、弁護人のいうAが敢えて体の正面を被告人の右手の方に押し付けてきたことにより生じた可能性は、・・・考え難く、電車の揺れや他の乗客の動きにより生じたと考えるのが合理的である(原判決8頁7行~15行)。

2 原判決の事実誤認
 (1) 本件動画からは、被告人の右手がAの体のどの部分に接近しているのか客観的に特定することは不可能である。したがって、「股間(陰部)付近であることは明らかである」との認定が、何ら根拠のない認定であることは、控訴趣意書27頁で指摘したとおりである。
 (2) そのことは措くとしても、「A自身は、自分の股間のまさに正面まで手を回してきたとの内容を述べていない」旨の原判決は破綻している。
なぜなら、Aは自分の真後ろに被告人が立ち、かつ、陰部を右手で触られた旨を証言しているところ、「真後ろから右手で陰部を触られた旨の証言」は、まさに、「A自身ドアに正対していた自分の股間のまさに正面まで手を回してきたとの内容まで述べるもの」に他ならないからである。

3 原判決の認定した事実を前提すると故意が否定されることになる関係であること(原判決の論理則違反)
 (1) 原判決は、「被告人の右手がAの股間の正面に位置する場面があったとしても、電車の揺れや他の乗客の動きにより生じたと考えるのが合理的である」(原判決8頁7行~15行)という。
 (2) 仮にそうであるとすれば、もはや被告人が故意にAの陰部を触ったことにはならないのだから、故意が阻却されるはずである。
 原判決は、故意が阻却されることを基礎付ける事実を認定しておきながら、なぜか故意を認めている。この点は、明らかな論理則違反でもある。

 特筆すべきは、Aが証言する陰部の箇所と被告人の右手が接触した可能性を、 「被告人の右手がAの股間の正面に位置する場面があったとしても、電車の揺れや他の乗客の動きにより生じたと考えるのが合理的である」と認定しておきながら、被告人の故意を認定し犯罪事実を認定していることである。

 このような不合理な認定を展開してまでも、有罪に持ち込む原審裁判官の資質を疑ってしまう。

 

〔9月事件〕

9月29日にAが提出した写真(弁1)はAが述べる被害申告とは全く整合しないことが何を意味するか 

 弁1を警察官Nに提出したときのAの供述は次の通りである(Aの9月29日付警察官調書(【疎明資料2】。録取者は警察官N)(控訴審で立証する)及び弁7)。

 「私は9月20日のT駅からJ駅の間の電車内で、犯人が自分の陰部をズボンの上から触った時に、自分のスマートフォンで何とか写真を1枚撮りました。この写真1枚を警察に提出しますので、参考としてください」。

 すなわち、弁1は痴漢を受けているその現場を撮影した写真であるとして提出されているのである。しかし、これは、Aが述べる被害申告(①被告人は立っているはずなのに、弁1では座っている。②Aは西向きに立っていたはず-A26頁4行、12行-なのに、弁1では車両東側座席端の手すりが写っているのだから、それに対面して立っているAは東向きに立っていることになる)とは全く整合していない。この事実は、Aが「自分が痴漢されているという証拠を何とか作らなければならない」と考えて無理をした結果が表れている、と評価すべき事実なのである。
 ところが原判決は、「上記写真自体は本件被害状況についての前記A証言と少なくとも矛盾するものとはいえず、前記A証言の内容は、上記撮影の経緯も含めた上記写真の存在について無理なく説明できるものになっているといえる」と説示している(原判決17頁14行目~)。この説示は、明らかに経験則に反する。

客観的な証拠である弁1をどのように評価するのかについての原判決の判断の誤り
 ア 弁1は、9月29日に、Aが警察官Nに「9月20日のT駅からJ駅の間の電車内で、犯人が自分の陰部をズボンの上から触った時に、自分のスマートフォンで何とか写真を1枚撮りました」と供述して差し出した写真である(弁7)。
 しかし、この弁1及び弁6に写っている人物が被告人でないことは争いがない
 イ 弁1の長辺を縦にしてみたとき、向かって左下に手が写っている。この手について、Aは「自分の手です」と自筆で記載している。ところがこの手について、原判決は「何者かのこぶしを握ったような形状の手」と判示しているのである(原判決16頁15行目)から、まず、この判示が間違っている。
 そして、この手が右手か左手であるかについては、右手であることが分かる。それは弁1自体からも、見ればすぐに分かることである(更に、弁1のデータをプリントアウトしたものがあり、明らかに右手である。【疎明資料3】)(控訴審で立証する)。
 この事実(Aは「自分のスマホで胸元から撮影しました」と自筆で記載している。弁1)は、この写真に写っている手がAのものであるとすれば、Aは左手でこの写真を撮影したことを意味し、Aが右手でこの写真を撮影したのであったというなら、写っている手はAの手ではないことを意味する。
 いずれにしても、Aが、自分が痴漢の被害に遭っているまさにその場面を撮影したという写真が、このような訳の分からないものなのである。
 Aの被害状況についての証言は、それを裏付けるものは何も存在しないというだけでなく、むしろ虚偽であることを疑わせるに十分というべきである。
ウ 原判決は、この写真を提出したAの行為を、「(弁護人主張の自作自演とは被告人を犯人にしたてあげるというものと解されるところ、上記写真はむしろ上記疑いを否定する方向に働くものであるともいえる。)」などと救済している(原判決17頁11行目~)。
 しかしこの説示部分も弁護人の原審弁論要旨の指摘を正しく理解していないことを表している。原判決のこの文章は、「被告人でない人物を犯人として特定している写真は被告人にとって有利な証拠となるから、被告人を犯人に仕立て上げる方向とは逆向きに働く事実である」という意味あいになっている(そうとしか理解できない)。しかし、原審弁論要旨の指摘は、Aが、被害の事実がないのに被害の事実があったように自演している(つまり事件性を作出しているのだ、ということ)を指摘しているのであって、犯人性の自演を指摘しているのではない。この弁1号証を提出しているAの態度は、「被害を受けていないのに被害を受けている」という事実を自演しようとしてぼろが出てしまった、と理解すべきなのであって、「自作自演の疑いを否定する方向に働くものである」などという評価でAの態度を救済するのは、論理則としておかしいのである。
エ 原判決の「Aが理由もなく電車内で上記のような写真を撮影するとは通常考え難い」という説示(原判決17頁3行目)は、結論先にありき、の判示である。
 この説示は、Aが「事件性を演出するために撮影したがぼろが出てしまった」という仮説が成り立たないことによって初めて合理性を有する論理なのに、原判決は先に結論を出して、その結論にあうように論理を展開している。論理則違反である。

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逆転無罪の事実認定

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022控訴趣意③

 9月事件につき記載していない関係証拠を掲載する。

 原判決は、Aと警察官N、警察官Iの証言が合致するように、恣意的にAの証言を引用している。

 以下、控訴趣意を掲載する。

 なお、電車の停車駅は、順に最寄り駅、O駅、T駅、J駅で表記している。

 

〔9月20日事件〕

原判決がまとめている「A証言の要旨」は、恣意的な引用であって、そもそも「要旨」になっていない(論告要旨の「A証言の要旨」のほぼ丸写しに近い)ことについて

 原判決は、Aが証言する電車内での位置関係につき、T駅に到着するまでの部分について、次のように要約している。

 「電車内での位置関係は曖昧であるが、自分は西側を向き、被告人は東側を向いていたと思う」「O駅を過ぎた辺りで被告人から右手を股間に押し付けられた」(原判決14頁7行目~10行目)。
 しかし、Aは、「自分(A)は入ってきたドア側(つまり西側)を向いていた」(A証言20頁下から3行目)「被告人は自分の左前にいた」(20頁下から5行目)「被告人は進行方向(つまり北側)ぐらいを見てました」(23頁1行目)と証言しているのであるから、原判決の「A証言の要旨」は、Aの証言を正確に要約していない。原判決が要旨としているAの証言部分(「自分は西側を向き、被告人は東側を向いていたと思う」)は、検察官が行った「被告人は東側を向いて立っていたというような説明をしていませんか」に対する「ああしてます」(23頁2行目~)の部分であって、Aが「被告人は東側を向いてたと思います」と証言している部分はない)。
 なお、上記「被告人は進行方向(つまり北側)ぐらいを見てました」(23頁1行目)という証言部分は、検察官が誘導尋問で「(捜査段階の供述で、Aは)被告人がどちらの方を向いていたと説明をしていたのか」という質問をした(22頁最下行)ことに対する答えの部分である。つまりAが検察官の思うような証言をしてくれないため、検察官が苦労して誘導尋問を用いているのに、その中で出てきた答えでさえも「被告人は進行方向ぐらい(つまり北側)を見てました」なのである。にもかかわらず、原判決は「被告人は東側を向いて立っていたと思う」と証言したという要約をしており、この要約は明らかに不合理である。
 そして記録をよく検討してみると、「原判決のA証言の要旨」という判示部分は、原審の論告(論告4頁のエ)の、ほぼ丸写しである(微妙に語尾などを変えてはいるが、要約している部分の事実の順番などもそっくりである)ことがわかる。

 

 T駅に到着後、J駅に到着するまでの部分については次のように要約している。

 「被告人は自分の右前くらいにいて」「被告人は北を、自分は西側を向き、その状態で右手を股間に押し付けられた」(原判決14頁15目~16行目)。
 しかし、Aは、「(被告人は、証人から見てどの辺りにいたかというのは覚えていますか)左・・・、左前ぐらいです。あっ、右前くらいです」「(例えば、証人から見て左側には、誰がいましたか)左側は、警察官がいました」「(もう一回聞きます。証人からみて、被告人はどちら側にいましたか)・・・ちょっとあいまいです」(25頁1行目)と証言しているのであるから、原判決の「A証言の要旨」は、Aの証言を正確に要約していない。原判決が要旨としているAの証言部分は、検察官が行った誘導尋問(25頁最下行~26頁14行目)に対する証言を要約しているものであるが、その部分(26頁部分)を見ても、検察官の「今の記憶で、この調書の内容を聞いて、記憶を整理して、どうですか」と聞かれているのに対して「どうですかって・・・」と答えたり、「進行方向は、北方向ですね。」に対して「(うなずいて)・・・えっ、北側ですか(?)」と答えたりしていて、およそ具体的な証言ができていない。
 上記に指摘した点は、些末なことであるようにも思えるかも知れない。しかし、ある証人の証言を要約する際に、このような恣意的ともいえる要約をすれば、「証言の符合性」などはいくらでも作り上げられるのである。なぜなら、各証人の証言のうち、整合している部分だけを取り出して、それを「重要な根幹部分」として説明すれば、「各証人の証言は、重要な根幹部分についてよく整合している」という判決の起案は、容易にできるからである。
 とりわけ、原判決は、その後の説示部分である「A証言及び警察官N証言の符合性」との中で、T駅まではAと被告人が互いに逆方向を向いてAが被告人の右側に来る位置関係で被告人の右手がAの股間部分に伸びていた旨を取り上げ、互いに信用性を高め合っていると説示しているが(原判決15頁、(2)のア)、前記の恣意的な証言要旨を前提とした判断であって(前記の通り、Aは実際には「自分は西を向き、被告人は北を見ていた。被告人は自分の左前にいた」と証言しているのである)、その判断に合理性はない。

 

A証言では、原判決判示第2の事実は認定できないこと

 Aの証言は、全体としてあいまいで、立ち位置だけではなく、自分が受けたという行為態様についても、具体的に証言しているとはいえない。そのことは、尋問していた検察官も感じており、「9月20日の日のことについてあいまいになってしまう原因というのは、何かありますか」という問いを発している(A23頁10行目)ところにも表れている。
 Aはそれに対して「9月の20日とか21日は、警察官と一緒に乗っていて、ほんで、一緒に乗るだけって言われたから、立ち位置とかを、自分、覚えんと、警察官に任して乗ってました」と答えている(A23頁12行目~)。しかし、立ち位置についてだけでなく、Aの証言は、要するに「右手を股間に押し付けるようにして痴漢されました」(A26頁18行目)ということでしかない。
 認定できるのは、「そばに居た」というだけの事実であって、迷惑防止条例の規定する構成要件に該当する事実を認定することはできない。

 なお、この日、警察官Nは「迷惑行為を現認した」と証言しているが、現行犯逮捕をしていない。その理由は「衆人環視のもとで逮捕すると被告人の人権が損なわれる」からだそうだ。

 それは措くとして、Aは「警察官が犯人を押して被告人に迷惑行為をやめさせようとした」「犯人は警察官の手を払った」「それでも犯人はやめなかった」と証言している。

 現行犯逮捕を目的に警乗した警察官の眼前でそのような鬩ぎ合いがあったのにも関わらず、警察官Nが犯行を見逃すわけがない。

 この点についても、Aと警察官Nの証言は合致しないし、極めて不合理なのである。

 

〔9月21日事件〕

原判決による「A証言の要旨」は、これまた、本当の「要旨」にはなっておらず、恣意的な引用であること

 原判決は、Aが証言する電車内での位置関係を、要旨、車内の立ち位置はあまり覚えていないが、被告人は近くにいたとする(原判決24頁、13行目以下)。
 しかし、Aは、「ちょっと曖昧なんですけど、自分が西を向いていて、(被告人は)右前ぐらいにいたような気がします」と証言し(A32頁1~2行目)、この答えを訂正させようとした検察官の「自分の左隣にいたと説明した記憶はないか」との誘導に対しても、「左とか右とかじゃなくて、自分の前にいたっていう、そこら辺にいた(前を指すものと解すのが合理的である)ってことしか、あんまり覚えてないです」と証言している(A32頁11~12行)。
 この通り、「被告人が前にいた」という旨の証言は、記憶は曖昧であるとしながらも、2度にわたり証言しているのであり、この点を原判決は恣意的にネグレクトしている。原判決の「A証言の要旨」は、恣意的な要約であり、不合理である。
 
「前に居た」と「横に居た」は全く異なる趣旨の証言であるのに、その点をネグレクトしていること

 原判決は、「3者の証言が符合する本件事案の根幹となる犯行状況は、Aと犯人が同じ方向を向きAが犯人の右側に来る位置関係で犯人の右手がAの股間部分に伸びていたというものである」と判示している(原判決30頁15行目~)。
 しかし、Aの証言は前記したとおり「左とか右とかじゃなくて、自分の前にいたっていう、そこらへんにいたってことしか、あんま覚えてないです。」「(要するに近くに居たというわけですね)はい」である(A証言32頁)。
 このA証言をして、「Aと犯人が同じ方向を向きAが犯人の右側に来る位置関係で犯人の右手がAの股間部分に伸びていた」という証言だという評価は、証言の評価を明らかに誤っている。
 

A証言では、迷惑防止条例の定める構成要件に該当する事実は認定できないこと
 そして、この主尋問の答え自体からして、Aの被害についての証言は、判示第3の事実について有罪立証できた状態には到底達していないというべきなのである。
 車両内のどの位置に居たのか、その時の自分の体の向き、被告人が居た場所、その向き、実際の被害態様などについて、Aは具体的な証言はまったくできていない(A30~34頁)ことは銘記されなければならない。

 

Aはことさらに、自ら股間部を被告人の方に向ける行為をしたと認められること

 警察官I証言によれば、「被害者は(乗車後ロングシートの前で)西方向を向いていた」(I3頁13行目)が、「O駅を発車したぐらいから、被害者の方が、南西方向、左向きの斜めに、体を少し斜め向きにした」ということである(I4頁下から2行目~)。つまり、公訴事実記載の犯行開始時間である「O駅」以降から、Aの方から被告人に向かって体(股間部分)を向けたということになる。
 しかし、従前からの痴漢の被害を訴えている人物が、他の乗客の動きの影響を受けないロングシート前で、その犯人であると指摘している被告人に向かって自らの体を向けるというのは、不自然で不合理である。この点、警察官Iは、「(嫌がってよけようとするはずのAが)どういう経緯でそっち側を向くようになったのかは私には分からない」と証言しており(I24頁13行目)、合理的な理由は全く見いだせない。仮に、このことが真に目撃されたのであれば、Aの自演を相当程度疑うことが合理的であると言える

  なぜ、控訴趣意書に『「前に居た」と「横に居た」が違うこと』と題して、原審裁判官が不合理であることを態々論じなければならないのか。

 日本の刑事裁判官は、ここまで資質が低下していると思うと情けなくなる。

 

 私の「事件」を担当した地裁判事だけであることを願いたい。

 

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逆転無罪の事実認定

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021控訴趣意②

 6月29日事件の控訴趣意は以下のとおりである。

 Aの虚偽申告が客観証拠に照らして明らかである上、原判決がいかに不合理であるかよくわかる。

 

原判決の判示

 原判決は、弁護人の「予想もしていなかったのに警察沙汰になってしまい、ひっこみがつかなくなって嘘を重ねた」旨の主張に対し、6月29日の出来事を根拠にして、虚偽供述の合理的可能性を否定している。
 しかし、原審弁論要旨において詳述しているとおり(22頁以下)、6月29日の出来事がAによる自作自演であることは、以下の客観的事実からだけでも、優に認定できると言える。

1回目の通話内容等から認定できること

 Aは、19時41分頃から約1分間、母親に電話をかけて通話しているが(甲4の写真17)、その内容は、「帰りの電車なんやけど、痴漢の犯人が同じ車両におる。」、「駅のエスカレーター上がってるんやけど、自分の後ろの方にいる。」というものであった(甲14の7頁)。
 しかし、客観証拠からは、19時43分頃、被告人最寄駅の改札を出た際、Aは携帯電話で通話しながら、未だ改札内にいたことが認められる(弁11の写真11)。又、被告人が改札を出てから約10秒後に、Aが最寄駅の改札を出たことも認められる(弁11の写真13)。
 そうすると、1回目の電話の時点では、被告人がAの前にいたことは優に認定することができ、Aにおける「被告人が自分の後ろにいる」旨の母親への通話内容は、明らかに虚偽であると言える。
 なお、母親は、痴漢の犯人を先に行かせるように助言した旨を供述している(甲14の8頁)のであるから、通話内容の信用性は極めて高いと言える。
 従って、本件出来事が、Aの自作自演であることは、1回目の通話内容からだけでも優に認定することができると言える。

2回目の通話内容から認定できること

 又、Aは、19時45分頃から約4分間(すなわち49分頃まで)再び母親に電話をかけて通話しているが(甲4の写真17)、その内容は、被告人から後をつけられているという趣旨のもの〔え、まじで。付いてきている。ちょっと待って。ちょっと待って。〕であった(甲14の9頁)。
 しかし、Aが最寄駅の改札を出たのは19時43分頃であり、Aが隠れたと証言したスーパーの駐車場までは、改札から直線距離で70メートルの距離であり、約2分程度の距離である(弁19)。
 そうすると、A証言を前提にしても、Aはスーパーの駐車場に隠れた(その後、証明写真を撮る機械のところで被告人を待っていた〔A46頁〕)のであるから、19時45分頃以降において、被告人から付けられることはあり得ないと言え、Aにおける「あとを付けられている」趣旨の母親への通話内容(え、まじで。付いてきている。ちょっと待って。ちょっと待って。)は、明らかに虚偽であると言える。
 従って、本件出来事が、1回目の通話内容と併せても、Aによる自作自演であることは、優に認定することができると言える。

小括
 以上のようなことを踏まえれば、6月29日の出来事は、Aの自作自演によるものであることは優に認定でき、原判決の「6月29日の出来事は、A証言の信用性を補強する客観的事実に該当するといえこそすれ、…Aの信用性に低下させる事情に該当するとはいえない」という説示(原判決11頁13行目以下)は、経験則違反であることは明らかである。
 従って、6月29日時点において、本件出来事を自作自演したAにとって、翌日に警察沙汰になることは全く想定していないことであり、本件の出来事を根拠にして虚偽供述の合理的可能性を否定する原判決は、論理則に反していると言える。
 なお、翌日、Aを信用した両親が被害申告をした際、肝心のA本人は「寝ていた」ことからも、Aの意思に基づかない被害申告であったことが窺え、Aが警察沙汰になることを予想していなかったことは明らかであると言える(A51、71、75頁)。

原判決の判示が極めて不合理であること

 原判決は、虚偽供述の合理的可能性を否定する根拠として、「Aが母親に伝えた内容と実際の先後関係等は、把握や表現が不十分になってもやむを得ない事柄」等と説示している(原判決11頁6行目以下)。 
しかし、改札を出るまで、被告人がAの前方にいるか後方にいるかのような簡明かつ単純な事実につき、把握や表現が不十分になることは考え難いと言え、上記説示は経験則に反すると言える。
 なお、Aは、公判では、被告人がエスカレーターで前にいた旨を認めている(A43頁)ことからも、前後関係につき「把握が不十分」であったとは考え難い。

 更に、原判決は、「Aが被告人の行動を気にして母親にも訴えるほどの不安を抱いていたこと自体は6月29日の出来事から合理的に推認できる」旨、説示している(原判決11頁11行目以下)。
 しかし、この説示は、原判決の「何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていた」ことを前提としなければ、Aが「被告人の行動を気にして・・・不安を抱いていた」とは到底認定できず、その前提事項に信用性が認められない以上、上記推認は論理則に反すると言える。
 又、6月30日に両親が被害申告をするに至るまで、Aが警察沙汰になることを拒み、被害申告に消極的であったことも(甲14第8項)、Aが不安を抱いていたとは認めがたい事情であると言える(Aは、6月13日に証拠として動画〔甲24〕を撮影しているのであるから、不安を抱いていたのであれば動画撮影後直ちに被害申告するのが自然であると言える)。

 原判決は、「Aが警察沙汰になることを想定しないで嘘を言っているのであれば、Aが母親に迎え来てもらったり、車のナンバーの下4桁の数字を母親に送信したりしたことは、説明がつかない」と、説示している(原判決下から2行目以下)。
 しかし、前記のとおり、Aが母親に対して客観事実と異なる虚偽の被害を訴えていることが優に認定できることを踏まえれば、その一環として、母親に虚偽の被害を訴えて迎えに来てもらうように依頼することは十分想定できるものであると言える。
 又、6月30日に両親が被害申告をするに至るまで、Aが警察沙汰になることを拒み、被害申告に消極的であったことからは(甲14第8項)、Aが警察沙汰になることは想定していなかったことは明らかであり、「Aが警察沙汰になることを想定しないで嘘を言っているのであれば」という点を前提とする上記説示は何ら根拠のないものであり、論理則に反する。

結語

 原審弁論要旨でも指摘したが(25頁)、6月29日の出来事は被告人がAを付け狙っていることを極めて強く推認させる重要なエピソードであるに止まらず、Aの両親が警察に被害申告する直接の契機となったエピソードでもある。
 従って、このような重要な事件が自作自演であることが判明した以上、Aの信用性は致命的に低下したことは明らかである。
 更に、6月29日の出来事が自作自演であり、警察への被害申告もAの意思に基づかないものであることは、「Aが高校の性犯罪の講義を契機に自分は痴漢被害を受けていると些細な嘘をつき、それが教師から親に伝わったため、親にも痴漢被害に遭っているといわざるを得なくなった」という弁護人の主張を裏付けるものと言うべきである。
 結局のところ、6月29日の出来事は、その当日に被告人がAの後をつけたという事実を否定するのみならず、そもそも、Aが痴漢被害を繰り返し受けていたという事実そのものを否定する事情というべきである。

 

 冤罪事件の判決文を読んで共通することは、裁判官が証拠を無視することや勝手な解釈を盛り込むことである。有罪判決を起案する際に、辻褄が合わないことを裁判官が胡麻化したり、勝手に論理を飛躍させるのである。

 

 いまの日本の刑事司法は、あってはならないことがまかり通っている。

 

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逆転無罪の事実認定

逆転無罪の事実認定

 

 

020控訴趣意①

 原判決の不合理な点を指摘するにあたって、控訴趣意は「事実の誤認」に焦点を当てた。

 以下のような内容を以って原判決を弾劾している。

 数回に分け控訴趣意書の内容を抜粋し掲載する。

 

〔Aの被害申告が虚偽である点〕

「何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていたこと自体は優に認められる」との認定は間違っていること

原判決の判示

 原判決は、「何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていたこと自体は優に認められる」と、説示している(原判決12頁13行目以下)。
 その根拠として、原判決は、「何者かにより繰り返し電車において痴漢の被害に遭っている旨を友人や両親に相談して写真を撮るよう頼むなどしていたこと自体はAのLINE履歴等の客観証拠から明らか」であること、又、「かかる内容の虚偽の被害を自分の親まで巻き込んで作出する動機をAに見出すこともできない」旨、説示している(原判決12頁9行目)。
 しかし、そもそも、「何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていた」ことの信用性の検討が、原判決において慎重になされていない。

従前の被害に関するA証言に信用性がないこと

 Aは、①「通学ではα電車に乗っており、α電車以外に乗るのは例外的であった」旨を証言し、又、②「6月までに10回の被害に遭ったこと」、及び、③「9月までに20回被害に遭ったこと」を証言した。しかし、原審弁論要旨に詳述したとおり(16、17頁)、6月30日までに被害に遭う機会があったのは、多くても6日間である(被告人5回54頁の資料4。原審弁論要旨添付資料1-④)。そして、6月13日以降は、9月20日及び21日を除いて被害に遭っていない(A52頁)のであるから、9月まで20回被害に遭うことなど、およそあり得ない。
 Aの上記証言は客観的にあり得ないことを証言しているのであり、虚偽であることは明らかである。

 原判決は、「回数という記憶や表現の仕方にそごが生じてもやむを得ないといえる事柄」と説示して(原判決17行目以下)、①ないし③のA証言を是認しているが、明らかに経験則に反する。
 たしかに、②については、痴漢被害に遭う機会があったのは多く見積もっても6日間であることから、その表現が「10回」となったとしてもやむを得ない事情であると言える(ただし、上記6日間すべてにおいて、被告人とAがα電車で同乗していることが立証されてこそ言える事情である)。しかし、③については、その表現が「20回」となることは、やむを得ない事情とは言い難い。
 Aは、6月30日の被害申告以降、判示第2及び第3の事実の日に至るまで、被害に遭っていない旨明言しており、被害に遭う機会がある日は多く見積もって6日間であることは、動かし難い事実である(6日間のうちすべての日において、Aと被告人が電車内で同乗しているか否かは、LINE履歴からAがα電車に乗っているか判然としないこと、及び、被告人が先頭車両以外にも乗ることがあることから判然とせず、立証できない事情であるから、実質的には6日間よりも少ない可能性が高い〔この点につき、検察官も立証を果たせていない〕。)から、被害に20回遭った旨の証言は、客観的事実に反しており、虚偽であることは明らかである。

 原判決は、Aの③の証言につき、何ら言及していないが、「回数という記憶や表現の仕方にそごが生じてもやむを得ないといえる事柄」として、Aの②の証言のみからA証言を是認するよう恣意的に言及を避けたものと強く推認され、上記「回数という記憶や表現の仕方にそごが生じてもやむを得ないといえる事柄」という説示は、あまりにも経験則に反すると言える。

 従って、Aが①のように通学の電車について虚偽の証言をしている(被告人とα電車で同乗する機会があった旨を強調し、殊更に被告人に不利な虚偽証言をしている)こと、又、②及び③のように被害回数につき客観的に不可能な証言をしていることを踏まえれば、A証言の信用性は皆無であり、「何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていたこと自体」に、「合理的な疑いを差し挟む事情」が生じていると言える。

6月29日の出来事はA証言を補強し得ないこと

 原判決は、「Aが被告人の行動を気にして母親にも訴えるほどの不安を抱いていたこと自体は6月29日の出来事から合理的に推認できる」旨、説示している(原判決11頁11行目以下)。
 しかし、前記のとおり、6月29日の出来事はAの自作自演であることは優に認定でき、本件出来事からは「不安を抱いていた」ことは合理的に推認されないし、到底、従前の被害、すなわち「何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていたこと」を、推認することもできない。

 又、6月29日の出来事につき、Aは虚偽の被害を親に訴えていることから、「かかる内容の虚偽の被害を自分の親まで巻き込んで作出する動機をAに見出すこともできない」という説示が不合理であることは明らかである。
 仮に、Aに動機を見い出せないとしても、従前の被害、及び、本件公訴事実に係る「合理的な疑い」を、全面的に解消する事情とはなり得ない。

 従って、本件出来事から、「何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていたこと自体」を、裏付けることはできない。

写真(甲27)は従前の被害の裏付けにはならないこと

 前記のとおり、写真①(甲27)は、6月11日にAが自分で撮影したものであり、原判決の「6月11日・・・に写真を撮ってもらった、6月11日に撮ってもらった写真が甲27の3頁目の写真であり・・・」(原判決4頁3行目以下)は、誤りである。
 そうすると、第三者によって、「何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていたこと自体」を裏付けることもできないと言える。

犯人性の特定に係るA証言に「合理的な疑い」があること

 A証言によれば、Aがはじめて被害に遭ったのは5月頃であり、その後5月半ばに両親に相談し、次いで6月に友人に相談したが、Aが犯人の人相や乗車駅を特定できたのは5月半ばくらいであると言う(A37頁)。
 しかし、Aは、6月6日にLINEで友人から痴漢の犯人とされる人物が乗車する駅を尋ねられた際、最寄り駅かT駅である旨曖昧に回答し、さらに電車がT駅を出発した時刻付近では、犯人が電車に乗ってこなかった旨送信している(弁3、A37頁)。
 このことは、Aが5月半ばに犯人の乗車駅を特定できていなかったことの証左であり、犯人を特定した時期に係る上記A証言と矛盾するものである。

 又、6月6日以降において、被告人とAがα電車に同乗する日が6月11日であり(原審弁論要旨添付資料1-④)、同日に前記写真①(甲27)がAにより撮影されたことを併せれば、Aが「痴漢の犯人とする人物」が、真に被告人であるかにつき、相当程度「合理的な疑い」があると言える。

 原判決は、「Aが従前に自分に対して痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を行ってきた人物が、実際には別人であるのに何らかの理由で被告人であると思い込んだため、その思い込みにより本件被害についても被告人から痴漢被害に遭っていると自ら思い込んだ可能性…につき検討しても、本件被害に係るAの証言は本件写真や本件動画といった客観証拠によって強力に支えられているものであると言える…」とした上で、「従前にAに対して痴漢被害に遭っていると思わせた人物」と「被告人」の結びつきにつき検討している(原判決11頁16行目以下)が、従前の被害につき信用性がないこと、又、本件写真(甲27)や動画(甲24)が強力な客観証拠となり得ないことは、すでに述べてきたとおりであり、上記説示は何ら説得力を持たないものであると言える。
小括
 以上のことを踏まえれば、原判決の「何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていたこと自体は優に認められる」という説示は、何ら根拠のないものであり、その前提に立った原判決の各事実認定には事実誤認があると言える。
 又、上記事実誤認と6月11日における写真①の撮影経緯を踏まえれば、「従前にAに対して痴漢被害に遭っていると思わせた人物」と「被告人」の結びつきについても何ら根拠のない事実認定であると言うことができる。

  なお、6月29日事件の控訴趣意については次回掲載する。

 

 

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逆転無罪の事実認定

逆転無罪の事実認定

 

 

 

019控訴審の構造

〔論理則・経験則等違反の指摘〕

 控訴審の構造につき、原田國男氏の『逆転無罪の事実認定』より引用する。

 現行の刑事控訴審は、事後審査審である。事後審査審というのは、原判決の時点で、原判決で取り調べた証拠(旧証拠)により、原判決の当否を審査する。・・・・・・旧証拠により審査するのが原則であるから、原審で取り調べられなかった証拠は、やむを得ない事由により請求できなかった場合か裁判所が職権で取り調べる場合にしか採用されない。

 このような事後審査審の構造のもとで、刑事訴訟法382条の「事実の誤認」とは何を指すのか、・・・・・・論理則・経験則等違反説によれば、事実の誤認とは、原判決の事実認定に論理則・経験則等の違反があることであり、それを指摘できない以上、法は原判決の事実認定を優先させたとするのである。

 最高裁は、まず、上告審の事実審査について、論理則経験則等違反説によることを明示したうえ(平成21年4月14日判例)、控訴審においても同説によることを明確に判示した(平成24年2月13日判例。平成24年の判例は、チョコレート缶内に隠された覚せい剤の密輸入について、被告人がその認識を有していたかが争われた事案である。第1審の裁判員裁判では、認識がないとして無罪とし、控訴審は、逆に認識があるとして逆転有罪とした。最高裁は、控訴審判決を破棄して、控訴棄却、すなわち、第1審の無罪判決を支持したのである。

  以上のように、控訴審で原判決を破棄し、逆転無罪を勝ち取るためには、まず原判決が起点となる。

 1審判決文を精査し、原審段階の証拠に照らして、論理則・経験則違反を具体的に指摘しなければならない。

 

〔論理則・経験則等違反以前の問題点〕

 弁護団とともに、控訴提起のあと、判決書の謄本を取り寄せ判決文を精査した。

 恐ろしい事実に気が付いた。

 原審裁判官が、証拠を取り間違っていたのである。

 

 もはや、論理則・経験則以前の問題である。

 

 6月11日に撮影された被告人の姿が写された写真①を(迷惑行為を受けていると判断した)友人が撮影したものと解釈したのである。

  

 原審裁判官は、証拠すら正解しようとしていないのである。

 恐らく、この誤解が事実認定に大きく誤審へと導いた。

  

 以下、控訴趣意書を抜粋することとする。

写真①がもつ意味

 写真①は、友人に撮ってもらったものではない。Aが撮ったものである。
 したがって、写真①を友人に撮ってもらったとの事実を前提として、「A証言は十分信用することができ(る)」(原判決5頁)とする原判決は誤りである。
 ところで、Aは6月11日には痴漢被害に遭っていない。6月11日に被告人から痴漢被害を受けたというA証言は、何らの裏付けがない(当初検察官は、Aの供述を根拠に6月11日の痴漢被害についても追起訴予定であった。このことは、平成30年9月20日付逮捕状及び同月17日付勾留状に、6月11日の事件が被疑事実として記載されていること、弁護人に交付された同年11月2日付起訴状に「追起訴予定」のスタンプが押されていること、原審の検察官の冒頭陳述第2の1に6月11日のことが記載されていること、起訴検事であるF検事は原審弁護人に対して6月11日の事件について追起訴予定である旨を告知していたことが示している。ところが検察官は6月11日の事件を追起訴しなかった-できなかった-という事実は、6月11日に被告人から痴漢被害を受けたというA証言に何の裏付けもないことを示しているのである。)。真実は、Aは自作自演のために、痴漢犯人として被告人の写真を撮ったのである。最初に全身写真を撮り、だんだん近づいて被告人の近影を撮影した。そのことは、6月11日にAが撮影した10枚の写真(甲27の1枚目)を撮影順に並べれば一目瞭然である。
 以上のことは原審弁論要旨18頁以下で詳述した。写真①を含む10枚の写真(甲27の1枚目)の撮影順序から判ることは、Aが自ら被告人に近づいていることである。もし被告人がAを付け狙って痴漢をしていたのであれば、Aが被告人から離れても被告人が付いてくるはずであり、甲27の1枚目の10枚の写真を撮ることは不可能である。
 真実は、Aは被告人に付け狙われていなかった。逆に、Aが被告人を痴漢の犯人に仕立て上げるターゲットとして選び、近づきながら10枚の写真を撮影していたのである。
 このように、写真①を含む写真10枚(甲27の1枚目)が撮影された事実は、少なくとも6月11日にAが被告人から痴漢被害を受けていないことを裏付けるものである。
 つまり、写真①を含む10枚の写真(甲27の1枚目)は、6月11日に被告人から痴漢被害にあった旨のA証言と矛盾する客観証拠なのである。
 客観証拠と矛盾するA証言が信用できないことは当然であり、写真①はA証言の信用性を低下させる証拠である。
 さらに言えば、写真①を含む写真10枚(甲27の1枚目)は、被告人がAを付け狙って痴漢をしていなかったことの証拠であり、Aが被告人を犯人とする痴漢の自作自演をしたことの証拠である。被告人がAを付け狙っていれば、Aが被告人から離れて写真を撮影することはできないからである。
 かかる観点からも、甲27の写真①はA証言の信用性を低下させる証拠であるといえる。

 

写真①についての事実誤認が、原判決の致命的な事実誤認を導いたこと

本件の本質的な争点
 本件では、「平成30年5月から6月にかけてのAに対する連日の痴漢行為」がAの自作自演であるか否かが争われている。
 つまり、Aが平成30年5月から6月にかけて毎日のように痴漢に遭っていた事実の存否が争われている。
 したがって、本件においてA証言の信用性を検討するにあたっては、何よりもまず、「毎日のように痴漢に遭っていた」旨のA証言の信用性を検討しなければならなかった。
前提事実を根拠なく認定した原判決のミス
 しかるに、原判決は、「Aが電車内で何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていたこと自体は優に認められるというべき」(原判決12頁)、「既述のとおりAが電車内で何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていたこと自体は優に認められる」(原判決28頁)と、それを裏付ける証拠がないのにもかかわらず認定し、これを前提としてA証言の信用性を肯定している。
 しかし、「毎日のように痴漢被害に遭っている」ことがAの自作自演であるか否かが争われているのであるから、Aが家族や友人に「毎日のように痴漢被害に遭っている」と話していたことが、Aの自作自演ではないことの根拠にはならないことは当たり前のことである。つまり原判決は、「毎日のように痴漢に遭っていた」旨のA証言の信用性について、合理的な理由を示していないのと同じである。
 結局、原判決は、「毎日のように痴漢に遭っていた」旨のA証言の信用性の検討を行わないまま、換言すれば、「平成30年5月から6月にかけてのAに対する連日の痴漢行為」がAの自作自演であるか否かを検討しないまま、「平成30年5月から6月にかけてAが繰り返し痴漢に遭っていた(とAが感じていた)」との事実を認定し、これを前提としてA証言の信用性を評価している。

原判決の致命的ミスの元凶は写真①についての前提事実の誤認
 原審裁判官も、Aが家族や友人に痴漢被害に遭っていると話した事実だけをもってAの自作自演ではないと認定したわけではなかろう(裁判官であれば、それが論理則に反することは理解しているはずだからである)。
 おそらく原審裁判官は、Aが友人に話しただけでなく、友人がAから頼まれて撮影した写真に被告人とAが近い位置関係で立っている場面が映っており、それが本件6月13日だけでなく、その2日前の6月11日にも同様であったことを、根拠としたのであろう。
 原判決に明記されている事実で明らかに事実と異なるのは、まず、(ⅰ)写真①の撮影者が友人である、という点である。さらに、(ⅱ)友人はAから頼まれて写真①を撮影した、という点も事実誤認である。そして、原判決に明記はされていないが、おそらく原審裁判官は、(ⅲ)写真①の被告人とAの立ち位置は、被告人がAに痴漢行為をしている位置関係にある、と認識していたのであろう。そのように原判決が誤った認識をした理由は、原審論告(1頁。第1の2の(3))に「(甲27の3頁目は)被害者の友人が被害者の背後に立つ被告人の様子を撮影したものである」旨の記載があるからであろう(原審裁判官は、論告しか読まず-もちろん弁論も読んでいる部分はあるが、それはあくまで「排斥する対象」としてしか読んでいない-、そして論告に引用してある証言部分しか尋問調書を確認していないから、この論告の記載によって、被告人の前に映る白いシャツの人物がAであると誤認したのであろう)。
 原判決は、写真①について上記(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)のような事実誤認をしたからこそ、「6月11日と6月13日に、Aが友人に写真撮影を依頼し、友人によってAの真後ろに密着するような状態で立つ被告人が撮影された」と認定し、「Aが電車内で何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていたこと自体は優に認められるというべき」(原判決12頁)、「既述のとおりAが電車内で何者かによりAをして痴漢被害に遭っていると思わせるような行為を繰り返し行われていたこと自体は優に認められる」(原判決28頁)という、前提事実の誤認という致命的なミスを犯したと推察されるのである。

写真①についての事実誤認が判決全体の事実誤認を招いた
 原判決は、上述の通り、随所に「Aが繰り返し痴漢に遭っていた(と感じていた)」という前提事実を持ち出して、この前提事実を根拠としてA証言の信用性を肯定し、あるいは本件犯行を認定している。
 しかし、上述のとおり、「Aが繰り返し痴漢に遭っていた(と感じていた)」という前提事実は、何の根拠も証拠もなく認定されたものであり、事実誤認である。真実は、「Aが繰り返し痴漢に遭っていた(と感じていた)」ことはAの自作自演だったのである。
 写真①についての事実誤認が、原判決が事実認定の柱とした前提事実の事実誤認を招いたのである。その意味で、写真①についての事実誤認は、原判決の誤判を導く致命的ミスであったといえよう。

 

 これは、原審裁判官の資質及び能力の問題であろう。

 結審から判決公判までの2か月間、いったい何をしていたのかと問いたい。

 

 検察官の論告をもとに、適当に判決を起案するのであれば、裁判官という職業はいらない。

 少なくとも、このような裁判官に「人を裁く」権利を与えてはならない。

 

 なお、上記写真①のほか、Aの自作自演を疑わせる「合理的な疑い」については、既に掲載している。

 

 

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逆転無罪の事実認定

逆転無罪の事実認定

 

 

018真の犯罪者

 伝説の裁判官と言われる人物がいる。

 原田國男氏だ。

 

 同氏の著書『逆転無罪の事実認定』の中の一部を掲載する。

 判決宣告の中でいちばん心に重いことは、真実を知るものが神様のほかにいるということである。まさに、目の前の被告人が、判決が正しい判断であるか否かを知っている。正解を知っているのである。

 いくら立派な判決を書いても、それが真実に反していれば、その権威はない。権力によりそれを正当なものとして被告人に従わせることはできるが、事実に反した判決は、正義に反している。もし、本当は無実なのに有罪とするのであれば、その瞬間、真の犯罪者とすべきは、被告人ではなく、裁判官自身なのである。

 これをどう考えるべきか。私は、正しい手続きを踏み、審理を尽くしたといえるならば、仮に真実に反する判断に達したとしても、それはやむをえないというしかないと思っている。

 二つの場合があろう。真犯人であるのに無罪とした場合と真犯人でないのに有罪とした場合である。後者の場合は、裁判官の良心としての責任は免れない。前者の場合、被告人は喜んで心のなかで舌を出しているであろう。その意味では、正義に反している。しかし、前述したように、疑わしきは罰せずということからすれば、これはこれで、その司法的な正義は実現されているのであるから、裁判官の罪は軽いというべきである。前者を避けるために、後者の誤りを犯すことになる。

  

 一審、京都地裁、戸崎涼子判事の判決が不合理である以上闘うしかない。

 2019年7月18日、即日控訴をした。

 

 控訴審に向けての準備がはじまった。

 

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逆転無罪の事実認定

逆転無罪の事実認定

 

 

017判決公判

 2019年7月18日。

 判決公判期日。

 

 京都地裁、戸﨑涼子判事が判決を読み上げはじめる。

 主文

 被告人を懲役6月に処する。

 この裁判確定の日から3年間その刑の執行を猶予する。

 事前準備、証人尋問、それから弁論要旨の作成、打てる手はすべて弁護団と打った自負がある。

 弁護団が不合理な弁解をしているわけではない。

 ただひとつ、懸念材料は裁判官であった。

 

 かつて弁護団からこんな話を聞いていた。

 所謂「無罪判決」の5つの条件である。

  • 裁判官に良識があること
  • 被告人が諦めないこと
  • 弁護人が刑事裁判に精通していること
  • 検察官の指揮が劣ること

 この中でどうすることもできないのが「裁判官に良識がある」というものである。

 

 実は私は新聞記者から事前に取材を受けていた。

 無罪判決の記事作成のため既にインタービューを済ませていたのだ。

記者:ただひとつ心配なことがあれば裁判官ですよね。

 2名の記者が同じことを口にしていた。

 この裁判官の公判を多数傍聴してきた経験が記者に生じさせた懸念だろう。

 そういった意味で嫌な予想は的中してしまった。

 

 ただ、有罪判決となれば、「不合理」な判決になることは分かっていた。

 証言台でじっくり聞く心づもりはしていた。

 

 Aが電車内で何者かによりAをして被害に遭っていると思わせる行為を繰り返し行っていたことは優に認められる。

  何度もこのフレーズを裁判官は繰り返していた。

 弁護側が訴えた「Aの被害申告の虚偽」はどう判断したのだろう。

 判決を聞き入った。

 弁護人は、Aが6月まで10回以上は被告人から被害に遭った旨述べる点に関し、Aの携帯電話の履歴や被告人の出勤時間等からすると、被告人とAが電車に乗り合わせていて6月までに被害に遭う可能性があったのは多く見積もっても6日に過ぎない旨等を主張し、Aは従前被告人から被害に遭った回数につき明らかに虚偽を述べているから本件被害に係るA証言も信用できない旨主張するが・・・・・・、友人や両親に写真を撮るよう頼むなどしていたこと自体はAのLINEの履歴等の客観証拠から明からであり、かかる内容の虚偽の被害を自分の親まで巻き込んで作出する動機をAに見出すこともできないのであるから・・・・・・、その回数という記憶や表現の仕方に齟齬が生じてもやむを得ないといえる事柄につき弁護人が主張するようなそごがあることをもってA証言の信用性が揺らぐものではないというべきである。

  すぐに裁判官の作為に気が付いた。

 弁護団は、Aが被害回数につき、

  ①6月までに10回以上被害に遭ったこと

  ②9月までに20回程度被害に遭ったこと

  ③6月以降、被害に遭っていないこと

 を証言しており、客観的事実と合致しないこと、証言内で矛盾が生じていることを示していた。

 しかし、裁判官は②の証言を意図的に看過した上で、「その回数という記憶や表現の仕方に齟齬が生じてもやむを得ないといえる事柄」と結論付けたのだ。

 A証言内の「6回被害に遭った(遭う可能性がある)」と「20回被害に遭った」との差異が「記憶や表現の仕方の齟齬」で生じたと言うのである。

 そうして裁判官は、

 Aは全体として質問されたことに対して淡々と簡潔に答えており、その証言態度には実際になかった出来事を創作して述べているとか、似たような出来事を誇張して述べているようなところは窺われない。

 と、何食わぬ顔で言い切った。

 世にいう「不当判決」とは正にこういうことだ。

 

 ところで、6月29日の「Aが後を付けられた事件(実際はAが後を付けていた事件)」はどうなったのか。

 弁護人は、6月29日の出来事について、Aと被告人の先後関係や距離等について母親に電話で正確な説明をしていないことを等をもって6月29日の出来事がAの自作自演である旨主張するが・・・・・・、Aが電話で母親に訴えたことと実際の先後関係や距離等(いずれも把握や表現が不十分になってもやむを得ない事柄といえる。)の間に弁護人が指摘する程度の食い違いがあることをもって6月29日の出来事をAの自作自演であるということはできない。

 6月29日は、最寄り駅の改札で、Aが私の後方を歩きながら「あとを付けられている」旨の電話を母親に2回していたことが発覚した事件である。

 Aが、実際に前を歩く私を見ながら母親に電話していることから、先後関係につき「いずれも把握や表現が不十分になってもやむを得ない事柄」とは到底言えない。

 世の中に「前を歩く人間」を見ながら「後ろにいる」と把握してしまう人が、果たしているだろうか。

 ここでも、裁判官は恣意的な評価を加え、Aを救済しているのだ。

 むしろ、母親に虚偽の電話をしているのが明らかであるのだから、「Aが自分の親まで巻き込んで被害を作出する傾向がある」と結論付けなければならないはずだ。

 

 早口な判決言い渡しは延々と続いた。

 6月の動画については、

 Aが敢えて体の正面を被告人の右手の方に押し付けてきたことにより生じた可能性は、・・・・・・考え難く、電車の揺れや他の乗客の動き等により生じたものと考えられるのが合理的であるから、上記主張は採用できない。

 と断じた。

 すなわち、裁判官はAの方から接近していることを否定していない。

 むしろ、それは「電車の揺れや他の乗客の動き等により生じた」と結論付けた。

 しかし、これでは被告人の「故意」が認定されないのではないか。

 

 故意のないところに犯罪がないことは刑事訴訟法で明記されている。

 しかるに、裁判官は事実認定をしたのである。

 

 別人の写真については、

 上記写真で異なる人物を撮影していたことをもって、弁護人のいうように不誠実なAの証言態度を示す事情であるとか、自作自演したとの疑いを抱かせるような事情(なお、弁護人主張の自作自演とは犯人に仕立て上げるというものと解されるところ、上記写真はむしろ上記疑いを否定する方向に働くものであるともいえる。)であるとはいうことはできない。

 と断じている。 

 しかし、まったく理解できない。

 裁判官は「別人の写真を提出しているので、かえって自作自演ではない証拠である」と言いたいのだろうか。

 このような判決文が平然と読み上げられる日本の司法は本当に恐ろしい。

 

◆A証言参考記事(以下記事は続く。) 

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 N警察官の目撃証言の変遷については、

 弁護人は、N警察官の検察官調書中の「被告人がAの陰部に右手を押し当てていたかどうか直接みることはできませんでした」「車内がぎゅうぎゅう詰めの状態で他の場所に移動することもままならなかったため、被告人の犯行を現認するようにすることができない状態でした」との記載から、N警察官は、捜査段階では犯行を現認していない旨供述しているのに公判では現認した旨証言していて信用できない旨主張する。

 そこで検討すると、・・・・・・N警察官が捜査段階で、被告人がAの陰部に右手を押し当てていたかを直接見ることができなかった旨一貫して述べていたとみる余地があるとしても、・・・・・・上記曖昧さが示す差異をもって変遷と捉えたとしても、その差異は上述のとおり表現方法の際に過ぎないとみる余地のある微妙な程度にとどまっている。

  という説明であった。

 目撃状況の根幹部分に係るN証言の変遷を裁判官は、「表現方法の際に過ぎないとみる余地のある微妙な程度にとどまっている」と言い放つのである。

 

 これでは「疑わしきは罰せず」の原則どころではない。

 弁護人がいくら「合理的な疑い」を示しても、裁判官は不合理に排斥するのである。

 

◆警察捜査参考記事(以下記事は続く。)

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 結局のところ、1時間程度の判決言い渡しで、上記のような説明が延々と続いた。

 このような「仕事」をしていて恥ずかしくないのだろうか。

 

 

 いまも戸﨑涼子裁判官は、京都地裁で何食わぬ顔で仕事を続けている。

 これは誤判ではない。

 明らかに恣意的に有罪判決を書いている。

 

 戸﨑涼子裁判官は15年目の判事である。

 不思議なことに、いまだ無罪判決を書いたというニュースは聞かない。

 

 

 *判決書は、省略箇所を除いて原文をそのまま引用している。

 

裁判官失格 法と正義の間(はざま)で揺れ動く苦悩と葛藤 (SB新書)
 

 

016論告・弁論

 2019年5月21日。

 初公判から約5か月が経過し、論告・弁論の期日となった。

 

 弁護側は、客観的事実とA証言、警察官らの証言が合致しないことをもとに、無実を訴えた。

 少なくとも虚心坦懐に関係証拠にあたれば、合理的な疑いを超える程度の有罪立証が検察官によって果たされていないのは明らかであった。

 

 頁にして、約100頁分の「弁論要旨」を裁判所に提出した。

 

 一方、検察側の主張は、ただA証言や警察証言をまとめただけのものであった。

 すでに弁護側は、客観的事実と多くの点で齟齬が生じていることを弾劾しているが、検察側は無視を決め込んだ。

 要するに、「検察の暴走」である。

 

 挙句の果ては、「被害者が嘘をつくはずがない」、「警察官が嘘を付くはずがない」の一点張りである。

 

 いままで検察は、「被害者」の虚偽申告で痛い思いをしたことがないのだろうか?

 又、警察の違法捜査や偽証で痛い思いをしたことはないのだろうか?

 

 弁論要旨のさいごに弁護人が綴っている。

 捜査担当検察官であれ、公判担当検察官であれ、本当の真相を知った時点で速やかに上司に報告して、本件公訴を取り消すこと又は有罪立証を断念することについて決裁を仰ぐべきであった。それが、公益の代表者としてのあるべき姿である。

 残念ながら、検察官は「後戻りのための黄金の橋」を渡らず、有罪立証を継続し、もって被告人の人権を侵害し続けるとともに、公益を害し続ける橋を渡る選択をした。

 起訴後に被告人の無実が判明したのに有罪立証する罪深さ、偽証の証拠・証拠をそれと知りながら公判廷に顕出することの罪深さは、検察も村木厚子氏の事件で思い知ったのではなかったか。

    結局のところ、組織は変わらないのである。

 そして、都合が悪くなれば、他の組織に責任転嫁をする。

 

 湖東記念病院事件では、いまになって検察は「警察が自然死を示す診断書を隠蔽していたこと」を公表した。

 言い換えれば、「警察が隠蔽していたのであって、検察には責任はないのである」と言い放っているのである。

 国家賠償請求に備えての対応であろう。

 

 検察という組織はその程度なのだ。

 

 失敗から学ばないから失敗を繰り返す。

 日本の無罪判決は、年間150件程度の件数がある。

 証拠(嫌疑)不十分の不起訴と併せれば、相当な人が冤罪で人権を侵害されている。

 

 「日本の検察は優秀だから有罪率が99.9%である」などは偽りでしかない。

 

 日本の司法は機能していない。

 

 被告人は一貫して否認をし、反省の態度を示しておらず、規範意識も著しく鈍麻していると言える。よって、被告人を懲役6月に処するのが妥当であると考える。

 果たして、鈍麻しているのはどちらであろうか?

 

 次回は、判決公判期日。

 無実であることは証拠を以って示してある。

 これ以降日本の刑事司法制度との闘いである。

 

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検察の正義 (ちくま新書)

検察の正義 (ちくま新書)

 

 

015被告人質問

 2019年3月。

 被告人質問の公判期日となった。

 

〔被害申告の虚偽〕

 ①被害頻度

 弁:被害頻度について確認します。

  :Aは「α電車の先頭車両に乗っていた」と証言しましたよね?

 私:はい。

 弁:Aは「α電車の先頭車両で9月まで20回程度痴漢被害に遭った」と証言していますよね?

 私:身に覚えがないことです。

  :そもそも回数自体あり得ないことです。

 弁:Aは、被害に遭っていない日、α電車に乗っていない日を証言しましたね?

  :何か作成しましたか?

 私:カレンダーにまとめました。

 弁:どのように作成したのですか?

 敢えて裁判官の前でカレンダー作成を再現した。

 AのLINE履歴、職場の出勤時間記録、電車の時刻表など、客観的資料を確認しながら、丁寧に作業をした。

 

 弁:分かったことはありますか?

 私:Aがα電車に乗っていないことが多くことです。

  :そして同乗する可能性がある日は「4日」しか存在しないことです。

 弁:日は指摘できますか?

 私:5月10日、14日、22日、6月4日です。

 弁:すると「Aが9月まで20回程度被害に遭うこと」は可能ですか?

 私:不可能です。

 弁:「6月までに10回程度被害に遭った」という警察への被害申告はどうですか?

 私:客観的に不可能なので虚偽だと思います。

 検察官はこのカレンダーの信用性について疑義を述べなかった。

 決して弁護団が恣意的に作成したものではない。

 

 ②6月29日事件の虚偽

 弁:6月29日事件について確認します。

  :Aは「あとを付けられた」と言っていますが?

 私:心当たりがありません。

 弁:どちらが先に改札を出たのですか?

 私:先に私が改札を通過しました。

 弁:防犯カメラに映っていましたか?

 私:Aが私の後方を携帯電話で通話しながら歩いていました。

  Aは、私の後方を歩きながら、母親に2回にわたって「後を付けられている」旨を電話をしている。

 母親の供述調書や通話履歴を示しながら、プレゼンテーションした。

 

 ③被害申告の経緯

 弁:6月29日事件の翌日にAの母親が被害申告をしたということでしたよね?

 私:本人が知らない間に驚いた母親が警察に行ったようです。

 弁:Aは何と証言していましたか?

 私:「警察に行くこと自体知らなかった」、「自分は寝ていた」と言っていました。

  Aの寝ていたという発言には傍聴人も驚いたようである。

 被害申告自体「Aの意思に反するものである」可能性が高い旨を訴えた。

 

〔関係証拠について〕

 ④6月13日事件の動画

 弁:疑問に思うことはありますか?

 私:Aと警察官で行った犯行再現が気になります。

 弁:具体的には?

 私:犯人役の警察官の手が、Aの陰部に届いていない点です。

  私の手はドア横手すり付近にある。

 Aはドアに正対している。

 その位置関係では、私の右手はAの陰部に届かないのである。

 警察の再現自体が、Aのいう「犯行」態様では、犯行が物理的に不可能であることを物語っている。

 しかるに、Aは「犯人が後方から陰部に手を回すようにして触ってきた」と証言しているのである。

 

 弁:Aの陰部に右手が接近しているように映っているのはどうしてですか?

 私:Aが体を捻じったのだと思います。

 弁:具体的に説明できますか?

  動画の静止画をプリントアウトしたものに補助線を入れた。

 撮影開始時にAの体はドアに正対している。

 しかし、撮影途中でAの体は右手の方向に正対しているのだ。

 これらを具体化するために静止画に作図した。

 

 弁:そうすると「Aの体が被告の手に正対した状態になった」ということですか? 

 私:はい。

  念のため、私と弁護人とで法廷でも再現を行った。

 裁判官に視覚で理解を促すためである。

 

 弁:この動画はどのような目的で撮影されたと思いますか?

 私:Aが母親や友人に証拠を催促され撮影したものだと思います。

 弁:具体的に証拠は示せますか?

  Aと友人のLINE履歴を示した。

 Aは友人に「動画〔証拠〕ないんかよ」と言われていた。

 明らかに友人に催促されている証拠だ。

 母親からは「証拠をとりなさい」と言われていたことは、Aの供述調書に記載されている。

 

 弁:動画を見るとAはドア側にいますね?

  :先に電車に乗り込んだのはどちらですか?

 私:私です。

  :ドア側にいるAがあとから乗り込んでいると思います。

  被害に遭い続けたとされる人物が、犯人の目の前に乗り込むなどあり得ないことだ。

 

 弁:他に気になることは?

 私:Aは、動画撮影前に「ミスって近いとこのってもーた」と友人に送信しています。それなのにAはO駅に着く際に位置を変えていません。

 弁:回避行動を執っていないのですか?

  上記LINEの送信時刻とα電車のO駅到着時刻は重複する。

  そうした状況下でAが回避行動を執らないことは極めて不合理である。

 

 弁:他に気になることは?

 私:この動画を撮影後、まったく被害がなくなっている点です。

  この日以降、Aと私は3回同乗をしている。

 しかし、Aはまったく被害に遭っていない。

 警察が同行警乗を指示し、普段β電車に乗らないはずのAが私と同乗した2日間に、突如「被害」が再発するのである。

 不自然極まりない。

 

 弁:この動画は警察に提出する予定で撮ったと思いますか?

 私:いいえ。

  :母親や友人に被害に遭っていることを示すために撮ったものだと思います。

  動画を撮って周囲に示すことができたため、Aのいう「被害」がなくなったのであろう。

 この推認は、極めて合理的であるといえる。

 この後、突如「6月29日」事件が発生したのである。

 不可解である。

 

 ⑤別人の写真

 弁:9月の事件で、気になることはありますか?

 私:Aが別人の画像を提出して「被害に遭った」と言っていることです。

 弁:Aが、警察に犯人を示して提出した画像のことですね?

 私:はい。

 弁:どのようなことが気になりますか?

 私:Aが画面を差し出した書面上で、犯人を間違うはずがないと思います。

  Aが別人の写真を提出していたことを訴えた。

 重ねて「現認」したとされる警察官がこれを受理したことの不合理を訴えた。

 

 Aの証言の弾劾、それから警察官の「目撃」の弾劾と続き、結局2時間程度の被告人質問となった。

 尋問調書と関係調書を精査すれば、事件の真相は明確になるレベルに仕上げた。

 

 続いて、論告・弁論期日である。

 

 なお、尋問事項の詳細は省略しているため、事件の詳細は過去の記事を参考にされたい。

 

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冤罪弁護士

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  • 作者:今村 核
  • 出版社/メーカー: 旬報社
  • 発売日: 2008/01
  • メディア: 単行本