『冤罪被害者』のブログ 

冤罪被害者の闘いを綴る

003人質司法

人質司法
 前述のとおり、極めて不自然かつ不合理な立件。
 これほど長期間にわたって身体拘束されることすら想像していなかった。
 いわゆる「人質司法」のはじまりである。

 今回は、その実態について記すことにする。
  
 被疑者が警察に逮捕され身柄を拘束された場合、被疑者は、被疑事実を逮捕状を示されることによって知ることになる。
 この瞬間、無実の者は強い衝撃を受ける。ひどく困惑もする。私の場合もそうであった。


 捜査機関は、ある程度「証拠」とされるものを握っている。しかし、被疑者には極力開示しないように努める。恐らく、被疑者に証拠が脆弱であることを知られたくないのであろう。
 そして、捜査機関は、被疑者を自白に追い込むために、あらゆる手立てを講じていく。

 長期間の勾留を裁判所に申請するのだ。

 弁護人は、裁判所に「準抗告」をして対抗する。しかし、裁判所は安易に検察に追随する。国家権力を前に、為す術がないのが実状だ。
 結局、無実の者が逮捕され「否認」すると、最大23日もの間、身体拘束を強いられる。再逮捕が重なれば、2倍3倍と身体拘束の期間は長期化する。


 昨今、日本の司法が「人質司法」として、国際的に批判される所以である。


 日本の司法に対し、カルロス・ゴーン氏が「有罪だという認識が蔓延し、差別が横行し、基本的な人権が否定されている」「日本の司法の人質にはならない」旨の声明を出したことは、大いに首肯できる。
 むろん、海外逃亡を企て実行したことには、賛同しかねるが。

人質司法との闘い〕
 私は、逮捕当初から「否認」を貫いた。

 自分が無実であることは、自分が一番知っている。易々と被疑事実を認めるわけにはいかない。

 しかし、その代償は大きかった。

  

 長期間、身体拘束されるのであるから、職場に仕事に行くことができない。面会以外の時間は、外部の人との接触すらできない。

 ただただ困惑の中、警察署内の狭い留置場で拘束されるのである。


 いつ自由になるのかも分からない。

 今後、起訴されるのか、不起訴になるのかも分からないのである。

 今でこそ、刑事司法について理解しているが、刑事司法に「無知」な当時の私にとっては、先のことが見通せず、ただただ耐えるしかなかった。
 

 一日一日、身体拘束は、確実に被疑者を精神的に追い込んでいく。無実の者であるならば猶更に。
 仮に、虚偽の自白をすれば、早期に保釈されることが多い。しかし、無実の者が無実を訴えるために「否認」を貫くと、裁判所は被疑者の身体拘束を続ける決定を下す。

 被疑者に「罪証隠滅の恐れ」や「逃亡の恐れ」があると見なされるのである。
 日本の司法は、罪を犯した者には、罪を認めれば途端に優しく接する。一方、罪を犯していない者には、当然の主張をしているのにも関わらず厳しい。

 まさに、「推定有罪」の前提に立った本末転倒なシステムなのだ。


 私の場合、再逮捕をされたことが影響し、起訴に至るまで約50日もの間、身体拘束が続いた。


 まさに「人質司法」との闘いであった。

〔「被告人」という立場に、そして「拘置所」へ〕
 検察の捜査が終わり「起訴」されると、無実を訴える者は、裁判で「無罪判決」を獲得するしか身の潔白を示すことができない。

 立場も「被疑者」から「被告人」へと変わる。

 

 裁判で「無罪判決」を勝ち取ることは容易ではない。

 日本の司法は、「推定有罪」の前提で裁判が開かれる。「疑わしき被告人の利益に」という原則など形骸化している。

 カルロス・ゴーン氏の会見を受け、森まさこ法務大臣潔白であるならば、司法の場で正々堂々無罪を証明すべきである」と世界に発信した。ゴーン氏への反論の前提が「有罪ありき」なのである

 又、「無罪を証明すべき」の箇所は、批判を受けたため「無罪を主張すべき」に変更された。同氏は、法務大臣という立場でありながら、「犯罪事実の挙証責任が、検察官にあること(刑事訴訟法)」を理解していないと思われる(前職は弁護士だそうだ)。

  

 そうした状況に抗うのであるから、被告人は弁護人とともに入念に準備することが肝要となる。

 ところが、身体拘束をされたまま裁判を争うとなれば、極めて不利となる。

 ドラマで見かける例の「アクリル板」越しに、弁護人と有意義な打ち合わせができないことは、想像に難くないだろう。


 むろん、検察は十分な捜査を終え、証拠収集も果たしたのであるから、被告人が隠滅し得る「証拠」は存在し得ない。「証拠」なるものは、検察がすべて握っているのである。いかなる手段で「罪証隠滅」が可能であるのか。

 又、被疑者は、真摯に無実を訴えているのである。その意に反して「逃亡」を企てることなどあり得ない。

 「罪証隠滅」や「逃亡」の可能性は、減殺されるのである。


 そうであるから、起訴後は、直ちに「保釈決定」がなされるのが道理である。

 被告人の保釈は、「権利保釈」として、定められている(刑事訴訟法89条)。

 

 しかし、検察は、身体拘束の必要性を裁判所に訴える。

 精神的に屈した被告人が罪を「認める」ことを狙っているのである。

 余談になるが、カルロス・ゴーン氏は、こうした日本の司法の抑圧から逃れたのだ。

 彼の逃亡の「悪」を殊更に指摘し、「人質司法」を正当化することは詭弁である。


 私は、結局のところ、約100日もの間、身体拘束された。

 その間、私は、警察署内の留置施設から拘置所に移送もされた。

 身を以て「人質司法」を体験したのである。


 拘置所に移送された2018年11月下旬。

 「証拠」とされる捜査報告書やAの供述調書が届いた。弁護人が証拠開示請求をしたのである。

 ようやく、「被害者」が訴える「被害」を知ることができたのである。
 
 

 しかし、それは愕然とするものであった。

 

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