『冤罪被害者』のブログ 

冤罪被害者の闘いを綴る

023控訴趣意④

 Aは、6月事件で動画、9月事件で画像を「証拠」として提出している。

 この点の控訴趣意は以下のとおりである。

 なお、9月事件については、Aは「別人の画像(弁1)を間違って提出したこと」を公判廷で認め、明確に証言している。

 しかし、原判決は不合理な認定を行い、A証言を救済している。

 6月事件の原判決の不合理な事実認定を併せて掲載する。

 

〔6月事件〕

原判決の認定したA及び被告人の立ち位置等を前提とすると、被告人の右手をAの陰部付近に接近させることは客観的に不可能であること

1 原判決の認定した前提事実
 原判決の認定した事実のうち、本件動画(甲24)から客観的に認定でき、かつ、弁護人も争わない事実は以下のとおりである。
 ア Aが本件日時に撮影した本件動画(甲24)では、被告人の右手の位置は、撮影開始から終了まで、概ね変わっていない(原判決5,6頁)。
 イ 被告人の右手は、電車の揺れ等によってその位置が多少変わることはあったものの、撮影されていない時間帯も含めて、その位置には大きな変化はなかった(原判決6頁16行)。
 ウ 本件動画によれば、被告人の右手の横には本件手すりの金属棒の下端がある(原判決6頁19行)。

2 原判決の認定した前提事実(上記アないしウ)のまとめ
 本件動画(甲24)の撮影開始から終了まで、被告人の右手は、本件手すりの金属棒の下端の横にあった

3 原判決の認定した被告人の行為
 原判決が、本件写真②及び③(甲27)並びに本件動画(甲24)から認定したA及び被告人の立ち位置及び被告人の右手の動きは以下のとおりである。
 ア 電車内で、Aは、ドアの方を向いて、ドアの横にある本件手すりが右肩にくるような位置に立った(原判決4頁11行)。
 イ 被告人は、右肩に黒いカバンをかけて、Aの真後ろに密着するような状態で立った(原判決4頁13行)。
 ウ 被告人は、Aの背後から、Aの体の右側と本件手すりの間に右手を通す形で、握った右手をAの体の前側に差し入れ、被告人の右手をAの股間付近に置き続けた(原判決6頁5行~13行)。

4 原判決の認定した被告人の行為は、客観的に不可能であることの説明
 (1) 原判決は、Aが常にドアに正対した状態で立っていたことを前提としている。電車内でAがドアに正対した状態で立っていた時間帯があったことは、本件動画(甲24)から客観的に認定できるし、本件動画の撮影終了後に撮影された写真(本件写真②及び③)からも客観的に認定できる。従って、客観的証拠(甲24,27)からは、電車内に居た時間帯の大半において、Aはドアに正対して立っていたと考えるのが合理的である。
 (2) しかし、Aが常にドアに正対して立っていたとすると、その状態で被告人の右手がAの陰部付近に置かれたと認定することは、原判決が認定し且つ争いのない前提事実(=本件動画の撮影開始から終了まで被告人の右手〔より厳密に表現すると、右手首より指先側の部分〕は本件手すりの金属棒の下端の横にあったこと)と矛盾する。
 なぜなら、被告人が、右手を本件手すりの横に置いた状態で、ドアに正対して立つAの陰部付近に右手を接触させることは、物理的に不可能だからである(図a〔疎明資料12の検証A・Bについての図1〕)。
被告人の右手が本件手すりの横に置かれていたという条件を付する限り、右手をAの陰部付近に接触させるどころか、「右手をAの体の前側に差し入れ」ること、換言すれば、「ドアとAの体の間に右手を差し入れ陰部に手を伸ばす」ことは物理的に不可能である。
 仮に、被告人がドアとAの体の間に右手を差し入れ陰部に手を伸ばした場合は、被告人の右手(右手首から指先側の部分)は、本件手すりの下端の横の位置から大きく離れ、甲24(本件動画)の内容と客観的に矛盾が生じることになる(図b〔疎明資料12の検証C・Dについての図1〕)。
 (3) 以上のことは、控訴趣意書28頁で指摘したところであり、原審の弁論要旨30頁でも指摘したところであるが、弁護人の指摘を待つまでもなく、一般常識で判断できる事柄(すなわち「経験則」)である。
原審裁判官は、一般常識に反する判断をして、物理的・客観的に不可能な行為を認定する過ちを犯しており、原判決の事実認定は、経験則に照らして不合理である。
 再現検証の結果、原審の認定は客観的に誤りであることが改めて明らかとなった(疎明資料12)。

5 Aが自ら体の位置及び向きを変化させたと考えられること 
 原判決は、常にAがドアに正対して立っていたことを前提としており、Aが体の位置及び向きを本件手すり側へ変化させた可能性を全く考慮していない(図c〔疎明資料12の検証C・Dについての図2〕)。
  しかしこの可能性は、甲24(本件動画)の2分40秒時点付近のAの体の向きがドアに対して正対していないこと(図ⅾ〔疎明資料12の検証C・Dについての図4〕、原審弁論要旨添付資料2-4、資料3)などと客観的に矛盾しないものであり、合理的である(図ⅾの黄色の線は車内ドアの位置であり、赤色の線は「被告人の手と接している箇所が股間部である」旨のA証言〔A11頁〕を前提としたAの体の向きである)。

 

Aの体の向きについての原判決には、事実認定に誤りがあるだけでなく、原判決の認定した事実を前提にするなら被告人の故意が否定される(原判決の認定は、論理則に照らしても不合理である)こと

1 原判決の説示は次の通りである
 ア 本件動画には被告人の右手がAの股間のまさに正面ではなく少し右側にずれた位置にあるように見える場面もあるが、そうであっても股間(陰部)付近であることは明らかである以上、本件犯罪が成立することに疑いはないし、A自身ドアに正対していた自分の股間のまさに正面まで手を回してきたとの内容まで述べるものではないから、少なくともA証言が本件動画と矛盾する不合理なものであるとはいえない(原判決8頁2行~7行)。
 イ 被告人の右手がAの股間の正面に位置する場面があったとしても、かかる状況が、弁護人のいうAが敢えて体の正面を被告人の右手の方に押し付けてきたことにより生じた可能性は、・・・考え難く、電車の揺れや他の乗客の動きにより生じたと考えるのが合理的である(原判決8頁7行~15行)。

2 原判決の事実誤認
 (1) 本件動画からは、被告人の右手がAの体のどの部分に接近しているのか客観的に特定することは不可能である。したがって、「股間(陰部)付近であることは明らかである」との認定が、何ら根拠のない認定であることは、控訴趣意書27頁で指摘したとおりである。
 (2) そのことは措くとしても、「A自身は、自分の股間のまさに正面まで手を回してきたとの内容を述べていない」旨の原判決は破綻している。
なぜなら、Aは自分の真後ろに被告人が立ち、かつ、陰部を右手で触られた旨を証言しているところ、「真後ろから右手で陰部を触られた旨の証言」は、まさに、「A自身ドアに正対していた自分の股間のまさに正面まで手を回してきたとの内容まで述べるもの」に他ならないからである。

3 原判決の認定した事実を前提すると故意が否定されることになる関係であること(原判決の論理則違反)
 (1) 原判決は、「被告人の右手がAの股間の正面に位置する場面があったとしても、電車の揺れや他の乗客の動きにより生じたと考えるのが合理的である」(原判決8頁7行~15行)という。
 (2) 仮にそうであるとすれば、もはや被告人が故意にAの陰部を触ったことにはならないのだから、故意が阻却されるはずである。
 原判決は、故意が阻却されることを基礎付ける事実を認定しておきながら、なぜか故意を認めている。この点は、明らかな論理則違反でもある。

 特筆すべきは、Aが証言する陰部の箇所と被告人の右手が接触した可能性を、 「被告人の右手がAの股間の正面に位置する場面があったとしても、電車の揺れや他の乗客の動きにより生じたと考えるのが合理的である」と認定しておきながら、被告人の故意を認定し犯罪事実を認定していることである。

 このような不合理な認定を展開してまでも、有罪に持ち込む原審裁判官の資質を疑ってしまう。

 

〔9月事件〕

9月29日にAが提出した写真(弁1)はAが述べる被害申告とは全く整合しないことが何を意味するか 

 弁1を警察官Nに提出したときのAの供述は次の通りである(Aの9月29日付警察官調書(【疎明資料2】。録取者は警察官N)(控訴審で立証する)及び弁7)。

 「私は9月20日のT駅からJ駅の間の電車内で、犯人が自分の陰部をズボンの上から触った時に、自分のスマートフォンで何とか写真を1枚撮りました。この写真1枚を警察に提出しますので、参考としてください」。

 すなわち、弁1は痴漢を受けているその現場を撮影した写真であるとして提出されているのである。しかし、これは、Aが述べる被害申告(①被告人は立っているはずなのに、弁1では座っている。②Aは西向きに立っていたはず-A26頁4行、12行-なのに、弁1では車両東側座席端の手すりが写っているのだから、それに対面して立っているAは東向きに立っていることになる)とは全く整合していない。この事実は、Aが「自分が痴漢されているという証拠を何とか作らなければならない」と考えて無理をした結果が表れている、と評価すべき事実なのである。
 ところが原判決は、「上記写真自体は本件被害状況についての前記A証言と少なくとも矛盾するものとはいえず、前記A証言の内容は、上記撮影の経緯も含めた上記写真の存在について無理なく説明できるものになっているといえる」と説示している(原判決17頁14行目~)。この説示は、明らかに経験則に反する。

客観的な証拠である弁1をどのように評価するのかについての原判決の判断の誤り
 ア 弁1は、9月29日に、Aが警察官Nに「9月20日のT駅からJ駅の間の電車内で、犯人が自分の陰部をズボンの上から触った時に、自分のスマートフォンで何とか写真を1枚撮りました」と供述して差し出した写真である(弁7)。
 しかし、この弁1及び弁6に写っている人物が被告人でないことは争いがない
 イ 弁1の長辺を縦にしてみたとき、向かって左下に手が写っている。この手について、Aは「自分の手です」と自筆で記載している。ところがこの手について、原判決は「何者かのこぶしを握ったような形状の手」と判示しているのである(原判決16頁15行目)から、まず、この判示が間違っている。
 そして、この手が右手か左手であるかについては、右手であることが分かる。それは弁1自体からも、見ればすぐに分かることである(更に、弁1のデータをプリントアウトしたものがあり、明らかに右手である。【疎明資料3】)(控訴審で立証する)。
 この事実(Aは「自分のスマホで胸元から撮影しました」と自筆で記載している。弁1)は、この写真に写っている手がAのものであるとすれば、Aは左手でこの写真を撮影したことを意味し、Aが右手でこの写真を撮影したのであったというなら、写っている手はAの手ではないことを意味する。
 いずれにしても、Aが、自分が痴漢の被害に遭っているまさにその場面を撮影したという写真が、このような訳の分からないものなのである。
 Aの被害状況についての証言は、それを裏付けるものは何も存在しないというだけでなく、むしろ虚偽であることを疑わせるに十分というべきである。
ウ 原判決は、この写真を提出したAの行為を、「(弁護人主張の自作自演とは被告人を犯人にしたてあげるというものと解されるところ、上記写真はむしろ上記疑いを否定する方向に働くものであるともいえる。)」などと救済している(原判決17頁11行目~)。
 しかしこの説示部分も弁護人の原審弁論要旨の指摘を正しく理解していないことを表している。原判決のこの文章は、「被告人でない人物を犯人として特定している写真は被告人にとって有利な証拠となるから、被告人を犯人に仕立て上げる方向とは逆向きに働く事実である」という意味あいになっている(そうとしか理解できない)。しかし、原審弁論要旨の指摘は、Aが、被害の事実がないのに被害の事実があったように自演している(つまり事件性を作出しているのだ、ということ)を指摘しているのであって、犯人性の自演を指摘しているのではない。この弁1号証を提出しているAの態度は、「被害を受けていないのに被害を受けている」という事実を自演しようとしてぼろが出てしまった、と理解すべきなのであって、「自作自演の疑いを否定する方向に働くものである」などという評価でAの態度を救済するのは、論理則としておかしいのである。
エ 原判決の「Aが理由もなく電車内で上記のような写真を撮影するとは通常考え難い」という説示(原判決17頁3行目)は、結論先にありき、の判示である。
 この説示は、Aが「事件性を演出するために撮影したがぼろが出てしまった」という仮説が成り立たないことによって初めて合理性を有する論理なのに、原判決は先に結論を出して、その結論にあうように論理を展開している。論理則違反である。

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