017判決公判
2019年7月18日。
判決公判期日。
京都地裁、戸﨑涼子判事が判決を読み上げはじめる。
主文
被告人を懲役6月に処する。
この裁判確定の日から3年間その刑の執行を猶予する。
事前準備、証人尋問、それから弁論要旨の作成、打てる手はすべて弁護団と打った自負がある。
弁護団が不合理な弁解をしているわけではない。
ただひとつ、懸念材料は裁判官であった。
かつて弁護団からこんな話を聞いていた。
所謂「無罪判決」の5つの条件である。
- 裁判官に良識があること
- 被告人が諦めないこと
- 弁護人が刑事裁判に精通していること
- 検察官の指揮が劣ること
- 運
この中でどうすることもできないのが「裁判官に良識がある」というものである。
実は私は新聞記者から事前に取材を受けていた。
無罪判決の記事作成のため既にインタービューを済ませていたのだ。
記者:ただひとつ心配なことがあれば裁判官ですよね。
2名の記者が同じことを口にしていた。
この裁判官の公判を多数傍聴してきた経験が記者に生じさせた懸念だろう。
そういった意味で嫌な予想は的中してしまった。
ただ、有罪判決となれば、「不合理」な判決になることは分かっていた。
証言台でじっくり聞く心づもりはしていた。
Aが電車内で何者かによりAをして被害に遭っていると思わせる行為を繰り返し行っていたことは優に認められる。
何度もこのフレーズを裁判官は繰り返していた。
弁護側が訴えた「Aの被害申告の虚偽」はどう判断したのだろう。
判決を聞き入った。
弁護人は、Aが6月まで10回以上は被告人から被害に遭った旨述べる点に関し、Aの携帯電話の履歴や被告人の出勤時間等からすると、被告人とAが電車に乗り合わせていて6月までに被害に遭う可能性があったのは多く見積もっても6日に過ぎない旨等を主張し、Aは従前被告人から被害に遭った回数につき明らかに虚偽を述べているから本件被害に係るA証言も信用できない旨主張するが・・・・・・、友人や両親に写真を撮るよう頼むなどしていたこと自体はAのLINEの履歴等の客観証拠から明からであり、かかる内容の虚偽の被害を自分の親まで巻き込んで作出する動機をAに見出すこともできないのであるから・・・・・・、その回数という記憶や表現の仕方に齟齬が生じてもやむを得ないといえる事柄につき弁護人が主張するようなそごがあることをもってA証言の信用性が揺らぐものではないというべきである。
すぐに裁判官の作為に気が付いた。
弁護団は、Aが被害回数につき、
①6月までに10回以上被害に遭ったこと
②9月までに20回程度被害に遭ったこと
③6月以降、被害に遭っていないこと
を証言しており、客観的事実と合致しないこと、証言内で矛盾が生じていることを示していた。
しかし、裁判官は②の証言を意図的に看過した上で、「その回数という記憶や表現の仕方に齟齬が生じてもやむを得ないといえる事柄」と結論付けたのだ。
A証言内の「6回被害に遭った(遭う可能性がある)」と「20回被害に遭った」との差異が「記憶や表現の仕方の齟齬」で生じたと言うのである。
そうして裁判官は、
Aは全体として質問されたことに対して淡々と簡潔に答えており、その証言態度には実際になかった出来事を創作して述べているとか、似たような出来事を誇張して述べているようなところは窺われない。
と、何食わぬ顔で言い切った。
世にいう「不当判決」とは正にこういうことだ。
ところで、6月29日の「Aが後を付けられた事件(実際はAが後を付けていた事件)」はどうなったのか。
弁護人は、6月29日の出来事について、Aと被告人の先後関係や距離等について母親に電話で正確な説明をしていないことを等をもって6月29日の出来事がAの自作自演である旨主張するが・・・・・・、Aが電話で母親に訴えたことと実際の先後関係や距離等(いずれも把握や表現が不十分になってもやむを得ない事柄といえる。)の間に弁護人が指摘する程度の食い違いがあることをもって6月29日の出来事をAの自作自演であるということはできない。
6月29日は、最寄り駅の改札で、Aが私の後方を歩きながら「あとを付けられている」旨の電話を母親に2回していたことが発覚した事件である。
Aが、実際に前を歩く私を見ながら母親に電話していることから、先後関係につき「いずれも把握や表現が不十分になってもやむを得ない事柄」とは到底言えない。
世の中に「前を歩く人間」を見ながら「後ろにいる」と把握してしまう人が、果たしているだろうか。
ここでも、裁判官は恣意的な評価を加え、Aを救済しているのだ。
むしろ、母親に虚偽の電話をしているのが明らかであるのだから、「Aが自分の親まで巻き込んで被害を作出する傾向がある」と結論付けなければならないはずだ。
早口な判決言い渡しは延々と続いた。
6月の動画については、
Aが敢えて体の正面を被告人の右手の方に押し付けてきたことにより生じた可能性は、・・・・・・考え難く、電車の揺れや他の乗客の動き等により生じたものと考えられるのが合理的であるから、上記主張は採用できない。
と断じた。
すなわち、裁判官はAの方から接近していることを否定していない。
むしろ、それは「電車の揺れや他の乗客の動き等により生じた」と結論付けた。
しかし、これでは被告人の「故意」が認定されないのではないか。
故意のないところに犯罪がないことは刑事訴訟法で明記されている。
しかるに、裁判官は事実認定をしたのである。
別人の写真については、
上記写真で異なる人物を撮影していたことをもって、弁護人のいうように不誠実なAの証言態度を示す事情であるとか、自作自演したとの疑いを抱かせるような事情(なお、弁護人主張の自作自演とは犯人に仕立て上げるというものと解されるところ、上記写真はむしろ上記疑いを否定する方向に働くものであるともいえる。)であるとはいうことはできない。
と断じている。
しかし、まったく理解できない。
裁判官は「別人の写真を提出しているので、かえって自作自演ではない証拠である」と言いたいのだろうか。
このような判決文が平然と読み上げられる日本の司法は本当に恐ろしい。
◆A証言参考記事(以下記事は続く。)
innocence-story2020.hatenablog.com
innocence-story2020.hatenablog.com
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N警察官の目撃証言の変遷については、
弁護人は、N警察官の検察官調書中の「被告人がAの陰部に右手を押し当てていたかどうか直接みることはできませんでした」「車内がぎゅうぎゅう詰めの状態で他の場所に移動することもままならなかったため、被告人の犯行を現認するようにすることができない状態でした」との記載から、N警察官は、捜査段階では犯行を現認していない旨供述しているのに公判では現認した旨証言していて信用できない旨主張する。
そこで検討すると、・・・・・・N警察官が捜査段階で、被告人がAの陰部に右手を押し当てていたかを直接見ることができなかった旨一貫して述べていたとみる余地があるとしても、・・・・・・上記曖昧さが示す差異をもって変遷と捉えたとしても、その差異は上述のとおり表現方法の際に過ぎないとみる余地のある微妙な程度にとどまっている。
という説明であった。
目撃状況の根幹部分に係るN証言の変遷を裁判官は、「表現方法の際に過ぎないとみる余地のある微妙な程度にとどまっている」と言い放つのである。
これでは「疑わしきは罰せず」の原則どころではない。
弁護人がいくら「合理的な疑い」を示しても、裁判官は不合理に排斥するのである。
◆警察捜査参考記事(以下記事は続く。)
innocence-story2020.hatenablog.com
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結局のところ、1時間程度の判決言い渡しで、上記のような説明が延々と続いた。
このような「仕事」をしていて恥ずかしくないのだろうか。
いまも戸﨑涼子裁判官は、京都地裁で何食わぬ顔で仕事を続けている。
これは誤判ではない。
明らかに恣意的に有罪判決を書いている。
戸﨑涼子裁判官は15年目の判事である。
不思議なことに、いまだ無罪判決を書いたというニュースは聞かない。
*判決書は、省略箇所を除いて原文をそのまま引用している。